1番はやはり「子どもが好き!」に限りますが、それだけでやっていくには大変な仕事なのは事実です。
ではなぜ先生をしているのか。
私は周りの人たちから見ると、異色の経歴を持つ人だと思われているのかなと、勝手に思っています。他の先生はやったことのない経験を積んだのは確かです。そこは誇りに思っています。
そんな自分が、なぜ回り回って先生の仕事に行き着いたのか、職歴と共に振り返っていきます。
ちなみに、教職の免許は小学校教諭1種と幼稚園教諭1種を持っています。
まずはそれらを取るに至った大学の進路を決めるところから始めようと思います。
教育学部への道のり
その1
「どの学部にいこう。」
将来の仕事について初めて向き合うことになったのは、高校生になった時でした。
関西学院は中高大とエスカレーター式なので、中学から関学に入った私は、関学グリーで指揮者をしたいという思いだけで、勉強もそれなり(ぎりぎり)にしかやっておらず、気楽に進学していきました。
そして、いざ学部を選ぶとなった時、困りました。
(ちなみに、内部進学の学部の決め方は希望制。定員を超えると、成績順に選ばれていくという形でした。)
神学部だと、ミサ曲の勉強になるかなぁと考えたことも一時ありました。
それから、ふと頭に浮かんだのが、うたのおにいさんになりたい。でした。
その2
今思えば、無知というのは悲しいことです。
その当時、教育学部が新しくできると情報が入り、自分の年が2期生になるようでした。
なんとなく、自分のやりたかったうたのおにいさんに1番近いような学部だなということと、漠然と子どもが好きだということ、そして、目新しいものに目がいったという理由で、教育学部を選びました。
教育学部へいっても、うたのおにいさんにはなれません。当時、調べもしなかった無知な自分を思うと悲しい。
後々知ったのが、うたのおにいさんは音大や劇団四季のような大きな団体に募集がかかるようです。(知ったのは大学卒業後…)
番外編 音大への道のり
一応、その時の自分を擁護するようですが、音大の受験を考えたこともありました。
兄が関学高等部から桐朋の声楽科へいったことや、当時行っていた合唱団の男同期2人共が音高に通い、音大をめざしていたことがあったからです。
自分なら音楽の中で何ができるか?と考えましたが、歌は合唱してる程度では周りに敵わないし、、幼少からしているピアノかな?と思い、高校3年の1年間は火がついたように練習をしていた時期がありました。
でも、たかが高3から急に頑張ったところで、それも周りには到底及ばないレベルだとわかったので、音大は諦めました。
それでも、社会人になってからも、音大が頭をよぎることが何度もあります。
その3
とにかく関学グリーで指揮者をしたい。という思いが、大学卒業後の自分のことを考えると、足枷になってしまっていたのかなと思う時もありました。
でも、結果的に教育学部に進めたことは、自分に合っていたし、何よりも、教員免許が取れたことは、後の自分の大きな助けになっています。
これまでの過程全てが今の自分の糧です。そうでも思っていかないと、時間が足りません。なにせ、いつも本気になるのが遅すぎる人なもので…
いつになったら大学の話に入んねん。と思っているのは私もです。本題に入るのも遅すぎますね。まだまだお付き合いください。それでは参りましょう。大学編。
大学で学んだこと
学業で学んだことは色々ありますが、今に活かされていることはほんのわずかです。例を挙げるにもパッと思いつかない程度。
一応ゼミは、音楽の幼児教育のゼミでした。リトミックとか?でも、卒論は日本の合唱史について。合唱好きやなぁ…
大学の1番の学びは、部活動での教える、引っ張る立場に立つということでした。
1.2回生はグリークラブにいきながら、軽音楽部での活動を。(2回生で部長をしていました。)3.4回生はグリークラブ一筋。念願の学生指揮者を務めました。
先生となった今では、あの時もっとこうできたなぁと思うことばかりですが、前に立つ者としての素地を養ったのは間違いないでしょう。
卒業、そしてフリーターへ
人生の夏休みである大学生活を謳歌し、無事に卒業。しかし、その後の進路決まらず。
うたのおにいさんになりたかった私は、何かつながりそうなミュージカルの舞台に立つことを目指しました。
そして、なんとオーディション合格。
と同時に、4月からは2ヶ月ほどフリーターをしていました。
主に倉庫内作業。いわゆるピッキングという仕事で、注文された品物を倉庫内から探して集める仕事。こういう世界があり、こういう人たちが見えないところで物流を動かす一部になっていることを知り、社会の裏が見えたようでプチ社会勉強になりました。あと筋力も少しついたかなと思います。パワー
あと、派遣での仕事のため、引っ越しとか、改装工事とか、よくわからん工場の手伝いとか、色々やってました。色んな仕事があるんやなぁ…
やってみるか、先生生活
6月。家庭の事情により本腰を入れて仕事につかなければならない状況になり、重い腰を上げて小学校の講師に。
運良く、音楽専科の空きがあり、少し遠かったですが勤務先が決まりました。海がまあ近いところで、通勤電車内から海を眺めることができました。
1年目、音楽専科
いきなり小学校の先生になり、授業も。何が何やらさっぱりわからん。からのスタートでした。
この時痛感したのが、自分ができることと、教えることができることとの違い。ましてや大人の経験そのままでは子どもには全く通用しない。なんとか1年目を乗り切った形で無事に終えることができました。音楽専科としての授業は正直、不甲斐ないままで終わりましたが、音楽会への出演や学習発表会、卒業式など力になれた部分もあったかなと思います。
そして何より、6年生の学年付き(副担任的なポジション)での経験が本当にありがたかった。その年の6年生は3クラスで、1人は後に教頭になるベテラン、6年生複数回持ちの実力者中堅、初6年生のやる気に満ち溢れた先輩の3人の布陣。
中堅の先生には時には厳しく、時には優しく、社会人1年目の私にたくさんアドバイスをしてくださいました。先輩は、親身になって一緒に残って仕事をしてくださり、困った時にはベテランの先生に助けてもらう形で、安心感しかなかったです。
時間がある時に算数の授業をやらせていただいたことも、とてもありがたかったです。
卒業式を、6年生に近い立場で参加することもでき、担任ってなんかいいなぁ。。と思えました。
2年目、2年生担任
2年目はなんと担任。20代ながらも実力のある先生と2クラスの学年を担当しました。
しかし、担任となると、専科とは全く違うことだらけ。
クラスの子との出会いから、低学年なのでほぼ全ての授業をどう進めていくのがいいのか、わけがわからないまま過ぎていく日々。
次第に、専科で来た身だから担任なんて…と、今思えば最低な気持ちまで落ちていき、となりのクラスの先生からお叱りを受けることに。
でも、その先生は本当にやさしくて、学級崩壊すれすれのところから、たくさんアドバイスをくださり、なんとか持ち直したくらいで1年を終えることができました。
この1年が先生としてのあり方を理解できた、今でも先生の仕事をできている、最も成長したいと思えるようになった年でした。
1番のきっかけは、音楽劇スイミーでした。
演出から演技指導、歌唱指導、そしてピアノ伴奏まで、元音楽専科としての実力を遺憾なく発揮し、その姿を子どもたち、また保護者の方々に見てもらえたことが、自信につながったのかなと思います。
3年目、再び2年生担任
またもや2年生担任。でもこの年は3クラスで、講師歴の長かった採用一年目の大先輩、一般企業から先生になりたくて九州から大阪にやってきた採用1年目の年上後輩、そして私。
学年間だけでみると、まさかの中堅どころに。
でも、去年の反省を活かし、この1年は最高に楽しい1年を送ることができました。はじめてやりがいを感じた年になりました。
やる気スイッチ、やっとオンになりました。
4年目、2年ぶり2回目の音楽専科
音楽専科に返り咲きました。1年目の不甲斐ない自分から、担任業を経て授業での立ち回りを学び、専科だからこその授業準備もしっかりし、見違えるくらい立派に専科として仕事することができました。自分で言うほどに。
とくに学習発表会は、フル稼働。ほぼ全ての学年に携わり、ピアノ伴奏を受け持ち、1日中各学年の練習が入ることも。脳みそが疲れすぎて、チョコレート食いまくってました。
鑑賞の授業で学校を代表して授業発表もしました。
とにかく、この年は、やりがい、充実度ともにピーク(今のところ)といえる時期でした。と同時に、USJのオーディションにも受かる年でもありました。相乗効果ってやつですかね。
人生の選択
ぶっちゃけ、どちらの仕事もやっていきたいくらいの気持ちでした。今思えば絶対不可能やけど。
でも、自分のやりたかったことに胸張って飛び込んでいけ。と、当時の校長に後押ししてもらい、3学期の途中、前倒しで授業を終わらせ、卒業式も終わっていない2月末で、無理を言って退職させていただきました。
そういえば、車の免許とるのもこの校長に後押しされて、仕事終わりに教習所通って免許とったなぁ。と、当時の校長には感謝しかないです。
それでも私は表舞台に立ちたい
先生の仕事をしながら思っていたこと、それは
この仕事を一生していくのは、今の自分の気持ち的にはしんどいなぁ。ということ。
そして、
やっぱり、まだまだ表舞台に立ちたいなぁ。ということ。
先生は如何にして、子どもたちにスポットライトを当ててあげるか、というのが仕事。要するに、一人一人の得意が活かせる場面を意図的に用意していくということ。
それによって、子どもたちの喜ぶ姿が見られるのは嬉しいことですが、どこかに自分も!と言う気持ちがあったのかもしれません。
いいように言うと、自分が輝く術を知らずして、如何に子どもを輝かせることができようか。
そんなこんなで、エンターテインメントの世界に飛び込んだわけです。
エンターテイナーと先生
自分のしていたショーと授業を比べると、意外に同じ構造であることに気付きました。
1番大きなこととしては、いずれも、ある大きな目標に向けて組み立てていくということです。
授業でいうとめあてにも当たりますが、ここでいう目標は子どもの気持ちの部分。授業が終わった時に、どんなことを思ってもらいたいか。
ショーでは、このショーが終わった時に、観てくれたお客さんにどんな気持ちで帰ってもらいたいのか。
学校は義務教育だけど、テーマパークは楽しみたい人だけが来てる。というと、初めのモチベーションに差があるように感じます。
しかし、学校でいう勉強が苦手だったり、授業に前向きではない子がいたり、今からどんなことをするのかわからない子がいるように、テーマパークのショーでも、屋内で座りたかったり、涼みたかったり、なんならどんなショーかもわからない人が観に来るように、案外、多種多様な人たちが来ると言う点では同じだと思います。(日本語が通じない他国の人が来るのも同じ!)
そんな人たちを前に、まず肝心なのは始めに心をしっかり掴むこと。授業でいう導入部分。ショーでいう、私の1番の仕事であった前説(プレショー)です。
今でも授業の導入部分は、1番大切にしていることです。
再びフリーター
1年ごとの更新制である契約社員のエンターテイナーである私は、1年の評価を受け、なんとか2年目につなげることができました。
しかし、2年目でクビになり、2月に退職。メインの仕事以外も増え出し、いよいよ3年目!(3年は同じショーを続けたいと思っていた)とやる気に満ちていた時だけに、人生最大に落ち込みました。
でもエンターテイナーとしてやっていきたい気持ちはそのままに、新しい職場を探し、オーディションにもいくつか挑戦しました。結果、一つイベント会社の方に気に入っていただけましたが、この時期はコロナウイルスが出回り始めた時期。卒業式もなく、新年度も始まらなかったあの時期です。
エンタメの仕事はほとんどなく、ましてや、なんのツテもない自分は路頭に迷いました。
その結果、少しの間、コールセンターとゆうパックの配送業をやっていました。電話対応スキルと地図を読むスキルと、運転スキルがアップしました。(一回事故ってしまったけど…)ミュージカル教室の講師として少し関わった時期もありました。
でも、コロナ1年目の中、先が全く見えず不安が積もり、最終的には大阪府の小学校の講師にもどることにしました。
この時期に、引越しと結婚を考えたということもあり、収入の安定を1番に考えた末、この結論に辿り着きました。
再び先生
6月途中。復帰後は算数少人数指導を担当。
ここでも6年の学年付きになり、算数の授業と運動会の団体演技の一部をさせていただきました。
というのも束の間。急遽、異動することに。(不祥事ではないです。)しかもなんと、運動会当日から。
運動会当日は新しい勤務先からの出張扱いとなり、午前中は運動会。午後からは新しい学校へ移動、というなんとも珍しい?形で異動となりました。
ただ、家からはまあまあ近かったのはよかったです。楽。
早くも復帰後2校目
10月からは新しい学校で支援学級担任。
多くは語りませんが、まあ、大変でした。
ちなみにその学校は文字通り新しい学校で、数年前にまだ数少ない義務教育学校(小中合わせた9年制の学校)へ生まれ変わったばかり。どこか特定されそうですが…
中学校の先生とも同じ職員室で、校長と教頭も2人ずつおり、なんとも変わった空間でした。中学生の授業を見れたり、中学校の先生と関われたり、中学生の教育の一部に関われたりと、他ではない経験ができました。
ちなみにそのまま2年目も同じ学校で支援学級担任でした。
色々勉強、試行錯誤しながら今までとはまた別の視点から小学校教育について考えることができました。
一難さって…
その年度の1月、冬休み中。延期等でなかなかできなかった結婚式を挙げることができたのですが、その翌日の朝。
校長から電話があり、諸事情により急遽、担任代行になるかもしれないとの話。
その校長は、結婚式には呼んでいなかった方の校長でしたが、他の来ていた先生方はおそらく知っていたはず。おお、恐ろしい…
結局3学期からは担任代行として年度終わりまで働きました。となりのクラスの先生がバリバリ仕事してくださったので、担任業務に集中することができました。ありがたや。
試験を受けようではないか
ちょうどこの年、久しぶりに教員採用試験を受けていました。
マイホーム購入や、出産も控え、生活がガラッと変わるタイミングでもあったので、ここらでしっかり地に足つけなければと思い、本気で試験に向けて準備しました。
が、あっけなく惨敗。筆記よりも自信のあった面接の方で点が取れなくて、これは厳しいなと思い、そこから私学の小学校を探しはじめました。
もともと小学校が私学出身なのもあり、私学の小学校で働くことには興味がありました。公立と何がどう違うのか、実際に現場で見てみたかったというのが一つ。
他には、公立の学校の先生は、異動が多いこと。それと、仕事に向かう姿勢が人によってかなり差があるなと感じ、気になっていたこと。
いくつか受けたうちの一つに縁あってお声がけいただき、今年度から再び新しい職場へ。
さあ、私学の小学校とはどんなものなのか!
気になる、私学の先生事情
まず、初めていった印象。周りの先生は全員この学校に長くいる人ばかりなので、新年度の準備等の会議が流れるように過ぎていき、置いてけぼり状態。実際動く時は、色々聞きながらやったり、周りの様子を見ながら動いたのでなんとか。
それ以降も、今まで定時を過ぎてやっていたのような長い会議がない。なんと効率的な。
長くいる先生ばかりだからこそできるやり方です。
そして、それぞれの先生方が役割をもって主体的に動いているので、ストレスなく日々が流れていくような感じ。よい。
ただ、自分もはやくその歯車の一部にならねばと…慣れていくしか。
子どもたちは本当にいい子たちばかり。これは公立だろうが私立だろうがどこも変わらない!
素直でかわいらしいのはどこに行っても同じですね。
ちなみに、1年目と2年目になる今は副担任。
授業は図書と算数を担当。今年は理科と算数。
他には運動会に向けての表現運動や発表会の指導も。
朝早かったり、土曜出勤もありますが、長期休暇はガッツリ休み取れるので、ありがたいです。
先生という仕事
先生の仕事は、子どもたちの生活の一部でもあるので、毎日変化があり、季節感もあり、1年間というサイクルがあり、飽きの少ない仕事だなと思います。
業務上同じことをくり返す仕事をしていたこともあるので余計にそう感じます。もちろん、同じをことを突き詰めていく楽しさみたいなのはありました。
どんな仕事も合う合わないは人によるとは思いますが、私は飽き性なとこもあるので、先生の仕事は合っている方だと思います。
あくまでも仕事
昔であった先生から言われた言葉で、今でも大切にしていることがあります。
「あくまでも仕事やから。変わりはいくらでもいる。」
これだけ聞くと無責任な感じはしますが、そうではないと私は思いました。
困ったときはお互いさまで、フォローしあえる人たちがいるからこその言葉だったと思います。
仕事と自分の生活がごっちゃになってしまわないように、うまく切り替えながらこれからもやっていきたいものです。
長文、読んでいただきありがとうございます。
真面目なエンターテイナー 今井脩
コメント